わたしの『ニセS高原から』観劇一発目は蜻蛉玉。
本家の「S高原から」をみていない私にとっては、この作品をベースとして他の作品
をみていくことになるわけだが、実はフルで男女キャストを書き換えていたことに
終演まで気付かなかった。
違和感を感じないままに、恋人たちの会話のやりとりに見入っていた、
これは演出家の方にとっては 「してやったり!」という感じだろうか。
蜻蛉玉の演出の島林さんは、わたしとそんなに歳のかわらない女性の方だ。
瞬時に「これは!」と目が冴えるような演出ではないけれど、
じわじわと歪みが空気ににじんで広がるような舞台に翻弄された1時間50分。
男女三組のカップルのやりとりが丁寧に描かれる。
女の子は、全員、サナトリウムで静養している患者である。
絵を描きたいのに、死の恐怖から夢中になりきれなかったり。
彼氏が見舞いにきてくれたのに、「忙しい」と口にすることに苛立ちを覚えたり。
やさしくされても、「大丈夫、大丈夫、なんでもない」とあたりまえのように振舞ったり。
ところどころに
「わたしは、しぬんだよ」
という示唆が嫌でも見え隠れしてしまう。
それがまた、ふたりの空気をかたくして、距離ができる。
アフタートークでも誰かが言っていたけれど、
男が「うんこが出た」っていうのと
女が「うんこが出た」っていうのはちがう。
女には、素直に健康になることも、喜べないような触れにくい壁がある。
女ならでは、の葛藤とか恥ずかしさとか意地とか、
かわってゆく、またかわらない男への戸惑いとか。
死を身近に意識して置いているから、それらに過敏に反応してしまう物悲しさとか。
つい、なんでもないフリをして、
そして、なんでもないように、傷ついている、女たち。
誰にも責められない砦を、自ら巧妙に築くことが彼女たちの希望なのかもしれない。
『すいかはいらない。ここで取れるから。でも、夏みかんは食べる』
と言って四年目の入院患者が恋人や医者、看護人と夏みかんを食べる場面がある。
四人の目の前に置かれた丸く大きいスイカ。
このスイカは、とある患者が、彼氏が他の女と結婚することになったから、
せんべつとでも言うように差し出されたようなもの。
まるで健康な身体と精神の象徴みたいに、どっしりと構えるスイカの存在感。
食べることは、生きるという行為に直結している。
すいかではなくて、夏みかん。大きいものではなくて、小さいもの。
そうやって、生きる為のひとつひとつの規模を身近なところから手放して、
患者が今、在る位置を現実から、ゆっくりと、
これからゆくべき道に、ずらしているように見えた。
劇中で、人物が観客に背中をむけて会話をやりとりする時間がけっこうあって、
表情 がみえないってことに、死に対するじぶんのイメージが奥の方までえぐられる感覚に
陥る。
背中で語られていることが口にしている言葉よりも多い気がして、そのちぐはぐさに、
えらく痛い思いをした。わたしだけ・・・かしらん。
終演後のアフタートークで、蜻蛉玉の演出家の島林さんが
「福島を殺したかった」
と直球で口にしたのを聞 いて、胸がざわつくのに気付く。
解釈が統一化されたように瞬間を味わってしまったことと、
背中の語りに自らが執着していたことが大きいのだとおもう。
島林さんがわるいわけではない。ないのだが、
何だか「ちぇっ」と唇を突き出したい気分になった。