わたしの『ニセS高原から』観劇一発目は蜻蛉玉

本家の「S高原から」をみていない私にとっては、この作品をベースとして他の作品
をみていくことになるわけだが、実はフルで男女キャストを書き換えていたことに

終演まで気付かなかった。


違和感を感じないままに、恋人たちの会話のやりとりに見入っていた、

これは演出家の方にとっては 「してやったり!」という感じだろうか。

蜻蛉玉の演出の島林さんは、わたしとそんなに歳のかわらない女性の方だ。


瞬時に「これは!」と目が冴えるような演出ではないけれど、

じわじわと歪みが空気ににじんで広がるような舞台に翻弄された1時間50分。




男女三組のカップルのやりとりが丁寧に描かれる。

女の子は、全員、サナトリウムで静養している患者である。

絵を描きたいのに、死の恐怖から夢中になりきれなかったり。

彼氏が見舞いにきてくれたのに、「忙しい」と口にすることに苛立ちを覚えたり。

やさしくされても、「大丈夫、大丈夫、なんでもない」とあたりまえのように振舞ったり。

ところどころに

「わたしは、しぬんだよ」

という示唆が嫌でも見え隠れしてしまう。

それがまた、ふたりの空気をかたくして、距離ができる

アフタートークでも誰かが言っていたけれど、

男が「うんこが出た」っていうのと

女が「うんこが出た」っていうのはちがう。




女には、素直に健康になることも、喜べないような触れにくい壁がある。


女ならでは、の葛藤とか恥ずかしさとか意地とか、

かわってゆく、またかわらない男への戸惑いとか。
死を身近に意識して置いているから、それらに過敏に反応してしまう物悲しさとか。


つい、なんでもないフリをして、

そして、なんでもないように、傷ついている、女たち。

誰にも責められない砦を、自ら巧妙に築くことが彼女たちの希望なのかもしれない。



『すいかはいらない。ここで取れるから。でも、夏みかんは食べる』

と言って四年目の入院患者が恋人や医者、看護人と夏みかんを食べる場面がある。

四人の目の前に置かれた丸く大きいスイカ。
このスイカは、とある患者が、彼氏が他の女と結婚することになったから、
せんべつとでも言うように差し出されたようなもの。

まるで健康な身体と精神の象徴みたいに、どっしりと構えるスイカの存在感。



食べることは、生きるという行為に直結している。
すいかではなくて、夏みかん。大きいものではなくて、小さいもの。
そうやって、生きる為のひとつひとつの規模を身近なところから手放して、


患者が今、在る位置を現実から、ゆっくりと、

これからゆくべき道に、ずらしているように見えた。    
           

劇中で、人物が観客に背中をむけて会話をやりとりする時間がけっこうあって、

表情 がみえないってことに、死に対するじぶんのイメージが奥の方までえぐられる感覚に
陥る。


背中で語られていることが口にしている言葉よりも多い気がして、そのちぐはぐさに、

えらく痛い思いをした。わたしだけ・・・かしらん。



終演後のアフタートークで、蜻蛉玉の演出家の島林さんが


「福島を殺したかった」


と直球で口にしたのを聞 いて、胸がざわつくのに気付く。

解釈が統一化されたように瞬間を味わってしまったことと、

背中の語りに自らが執着していたことが大きいのだとおもう。


島林さんがわるいわけではない。ないのだが、


何だか「ちぇっ」と唇を突き出したい気分になった。




企画・製作:シス・カンパニー

作:デイヴィッド・マメット

演出:長塚圭史

出演:八嶋 智人・大森 博史・酒井 敏也・小松 和重・中村 まこと

    平岩 紙・明星 真由美・小泉 今日子


青山円形劇場にて8/28(日)マチネ観劇。


『じぶんは、本来いるべきはずの場所に存在していないのではないだろうか?』


ふと、どこからか降りてくる、我が身に対する問いかけ。

たとえ、自分が望んだ暮らしを手に入れたとしても



「もっと、違う道があったのではないか」

「より良い生き方が出来たのではないか」

「可能性は広く差し出されていたのではないか」



という疑問の渦に巻き込まれることが、ある。

このような経験をしている人は、少なくないのではないかと思う。



この作品は占い師から放たれた


『あなたはご自分が本来いるべき場所にいらっしゃいませんね』


という言葉をきっかけに、平凡なサラリーマンであるエドモンドが、

自ら、過酷な運命の歯車をまわしはじめるストーリーである。



妻に「別れよう」と告げ、激怒され家を追い出され

女を買おうとして騙され金を巻き上げられ賭博に走り

しまいには一夜を共に過ごした女を刺して牢獄に。



あっという間にエドモンドは転落人生へと足を踏み入れていく。



女性の視点からみると

「やっぱり男は若いときに遊んでおかないと駄目よね」

と冷静に彼の人生に駄目出しをしてしまいたくなるのだが・・・



テーマとして取り上げられているのは

「人間に対する普遍的な問い」だ。



あなたは、日々の生活に満足していますか?

あなたは、今歩んでいる道を踏み外さないと言えますか?

あなたは、予想もしない出来事が起こったとき、それを受け入れることが出来ますか?



シンプルに、エドモンドという一人の男性に焦点をあて人生を描き出していくことによって

生きる上での問いがいくつも浮かび上がり、私たちの前に差し出される。



劇場の四方からエドモンドに迫ってくる過酷な事実の数々。

円形劇場、というのが、いい。その舞台の形からして作品のテーマに添っている。

所詮、その枠の外には出ることのないものが人生なのだ、と訴えているかのよう。



八嶋智人はエドモンドという役柄の人生をしっかりと背負い、鬱屈した思いを放出していた。

軸がぶれずに物語の展開を追うことが出来たのは、彼の演技によるところが大きいとおもう。

キレ具合が面白いだけの役者ではない。

あの存在感は、まぎれもなく彼の武器であろう。


久しぶりに見た役者としての明星真由美の肉体美と色気たっぷりの声にほれぼれしたが

さらに興味深かったのは、エドモンドに愛想をつかす奥方と

エドモンドが夢中になる娘、グレナ両者を演じた小泉今日子だ。


それぞれの女性が持つ繊細さを立ち姿ですでにあらわしていた。

演出面での意図があったかどうかは分からないが、

小泉今日子が二人の女性を演じたということは

結局のところ、「求める女性が持つ本来の姿はひとつ」

という皮肉が見え隠れしているようで痛々しく感じられた。


牢獄での暮らしを静かに受け入れていくエドモンドから、

現代社会における日本人に対する警告が発せられているような気がしてならない。



「あるがままを受け入れ、あるがままに生きる」



シンプルなことほど難しいと、改めて感じさせられた公演。




空間ゼリー「恋愛修行僧」の再演である。

初演を観たときの衝撃は今でも忘れない。


劇団内それぞれの思惑。

恋愛をふくめた人間模様。

ねじれた友情。

拭えない欲求。

日常と非日常の境目。


その当時、私が抱えていた問題と重なる内容がそこかしこにこぼれていて

痛いながらも、ぐぐっと舞台に引き込まれたことを覚えている。主宰の彼女が

同年代だということも、内容に共感した理由のひとつだと思うのだが、


この劇団の芝居を観ると「物語のチカラ」を再確認させられるのだ。


ほぼ劇団員が女の子であるという話題性はもちろんのことだが、

その話題性やパフォーマンスのみにとらわれない、きっちりと作り上げた

正統派の芝居の内容を観ると「してやられた」という気分になる。


最近、えんげきのぺーじの一行レビューでもちらほら取り上げられるようになったようだ。


女性のために、演劇


というキャッチコピーを打ち出しているこの団体は

日本大学芸術学部演劇学科の主宰・坪田文を中心にして作られた劇団である。

彼女が書く脚本のチカラが、人気の大きな比重を占めていると思われる。


以下、HP http://www.kuuze.com/  から紹介文を引用↓


「女性なら誰しもが感じたことがあるであろう

寂しさや切なさといった気持ちを舞台上の世界に映し出し、
観客が自分自身の姿を舞台上の登場人物に重ねられるような

作品を作ることを目標として活動中。

女性の目から見た男性と現実の女性とのギャップや、

恋愛結婚出産仕事といった日常の理想と現実の違いなども描いている。」


ちなみに、ここに所属している女の子はみんな可愛い。プロフィールをご覧あれ。


さてさて、今回の公演。


従来の公演とは違ってかき氷ビールなどが用意されており、

夏祭り風に楽しめるテイストになっていた。


わたしも誘惑に負けて、かき氷を購入。そういえば、かき氷たべながら芝居みるのは初めてだ。



芝居の内容は、とある劇団での人間模様。


蜷川ルイ子(竹内春紗)は自分が失恋した体験をもとにして物語を書くことが

話題になっている劇作家である。彼女は劇団に入ってきた男性俳優に次々に

恋をして、劇団員を騒動に巻き込んでしまう。


劇団員は迷惑をこうむっているが、後々執筆される彼女の作品がかかっているので、

あまり余計な口出しは出来ずにいる。そんなルイ子をなだめるのは演出家である

一葉(下山夏子)の役目。


二人には、触れないようにしている傷があった。ルイ子の恋人を一葉が奪ったのだ。

一葉は、その恋人と今も付き合っている。けれど一葉の気持ちは恋人には向いていなかった。


ルイ子が自らの幸せを見つけていく中で、いっそう捻れていく一葉の思いの矛先。


劇団員それぞれの思惑も織り交ざって、物語は展開していく。




まるで倉庫のような小屋でビデオ中継を使って部屋などを表現していたのには興味をひかれた。

けれど、初演のときより役者が浮き足立って落ち着かない状態にあったように感じられたことは残念。


初演よりセリフまわしも速くなっていた。台本の長さを縮めようとしたのだろうか?

見せ場が流れてしまったように思えて勿体無かった。


台本のレベルが高い分だけ役者が追いつこうとして必死になっているように見える。

等身大の姿で、見せられるものをたくさん持っているのに、惜しいところである。


客演で出ている高橋征也さんは初演と同じ役柄で再演も出演。

女の子の高い声のなかで、すっと入ってくる重低音は観ているものにやさしい。

女の子慣れしていない様子を表現するのが上手かったな。あの照れ笑いが好きだ。


いま、少しずつ知名度があがってきているこの劇団。


次は「つの隠し」というタイトルで池袋シアターグリーンフェスティバルに出場するそうだ。


これからの活躍に期待大!である。


吉祥寺シアターオープニングステージ第二弾。

さすが、とっても綺麗。入り口にカフェもあって、いい感じ。

今日は、ナイロンの役者さんがたくさんいらっしゃってました。


今回の公演には700人の中から選ばれた35人の役者達が出演。

技術やキャリアは、ばらばらとのこと。


劇場に入ると小型の分厚いパンフレットが無料で配られるのだけど

一人一人役者さんが個別に紹介されているし、

本谷有希子とケラの対談も掲載されているし、

なかなか読み応えアリ。これから観劇される方、お楽しみに。


以下、ネタばれの可能性アリです。


舞台は下手と上手に階段が設置されているくらいで、ほぼ素の状態。

35人出てくるんだもんなぁ・・・と思ったらオープニングのダンスで本当に全員出てきた(笑)

その中でも目を引く、拙者ムニエルの伊藤修子。小さくてちょこまかしていて、かわいい。


簡単にあらすじ。

恋人に見せつけるために左目をくりぬいた消崎由香(宗清万里子)と

頻繁にリストカットしてしまう消崎健太郎(野部友視)を中心に繰り広げられる

妄想コメディ。時に妄想と現実は入り乱れ、結局全部妄想?な結末。


いい加減なようで意に添っていたりしてだからこそ混乱してしまう、

いつも通りのナンセンスな会話。なんか、深い意味が?と思ったら

別に、ただ面白いだけだったりして。


それなのに物語が破綻しないのは、テーマを見え隠れさせる瞬間を

いくつも織り込んでいるから。今回はタイトル通り「若さ」だったけれど

最後の河野君(市川訓睦)が全裸になっちゃうところとか、最高。

本当、意味もわからず脱ぎたくなってしまうぐらいの年齢があるんだよなぁ。

と大笑いしながら見ていた(舞台で脱いだことありませんが)


「若さ」は武器なんだなぁ、と改めて思った22歳。




女体道場。

すごい名前だ。

女体道場。


劇団名だそうだ。

脱ぐのだろうか。

毛皮族より露出するのか。


うーん。うーん。

個人的にはそれも楽しみだけど。


と思いながら劇団紹介を眺めてみたら

脱いだりすることに重点を置いている劇団ではないようだった。

物語の題材が、とっても私好みな予感だったので胸が高鳴った。


安心&脱がないのはちょっぴり残念な気持ちを抱え、劇場へ。

ちょっと一つ一つの席がせまくてお尻が痛い。

金曜日のソワレ、満員。話題性もあってドキドキ。


以下、芝居の内容を。


会社をすぐに辞めちゃう主人公、はぁーくん。

先輩から預けられた大事な荷物をずっと持っていることすら出来ない。

保険会社と証券会社を間違えて就活していたりして、

「いい年して」と怒られたりしてムシャクシャしている。


「@変態」というマニア向けビデオ店でアルバイトを始めた、はぁーくん。

その店には、鬼畜・スカトロ・屍姦などの性癖を持つ客がやってきて、

自分達がいかに辛い思いをしているか涙ながらに話す。


そんな客を

「本当は実行する勇気がないくせに、頭だけで妄想して満足してるんだ」

と、なじったりする、はぁーくん。


実は、はぁーくんは学習障害。

大事なものが多すぎると怖くなってしまうらしい。

だから物事が続かないとのこと。


ところが、小学校になじめない彼を学習障害と判断した

フリースクールの教師が幼少期の男の子に、

いたずらしていたという事実が判明する。


教師は、はぁーくんを手放したくないが故に、

彼を学習障害として学校に引き止めていたらしい。


つまりは。はぁーくんは。

学習障害でも何でもなく。


「ただのバカだったのねぇ!」


そんな話。


「学習障害ではなかった」ことが判明したときの

はぁーくんの表情が印象的だ。なんだか他人事には思えなくてヒリヒリした。


痴漢とか、変態とか、学習障害とか、色々な事柄を扱っているけれど

私がこの芝居から見たのは


「自分の弱さを何かのせいにしないといられない」

そんな何よりも人間らしい人間の姿と

「万人に受け入れて貰える事実には限りがあるという真実」

だった。


それらを見事に描き出している作品であると思う。

この芝居は、そういう現状を見せたままで終わる。

それがいい。潔い。だって、救いなんて見せたらいっぺんに嘘になる。

時間が経つにつれて、重みを増していく芝居の内容。


役者の過剰な演技は気になったものの、

そんなものを吹き飛ばしてしまうくらい脚本がよく出来ていた。


女体道場という劇団名から観劇を敬遠している人が多いようだが

勿体ないと思う。スタンダードな芝居作り、してる。


「オタンジョウ日警報」

公演を観た後だと、このタイトルも痛々しく思えてくるなぁ。



窪田あつこが主宰を務める花歌マジックトラベラー。

以前、X-QUESTを観たときに、彼女がゲスト出演していた。

はちきれんばかりの肉をたたえたSM女王のいでたちで

舞台に出現した彼女のインパクトは強烈だった。

もはや他の役者も引かせる勢いで男に噛み付いていた彼女に

何故だか激しく胸が痛んだことを覚えている。


現在、小説やテレビドラマ出演、お笑い芸人、イラストレーターなど

劇団以外にも様々なジャンルで活動しているようだ。


「こ・・こんな人が主宰の劇団は・・さぞかし×××なんだろうなぁ」


と想像を膨らませていたのだが、今回はしっかりとしたテーマ性が

あったので、猥雑さが目につくようなことはあまり無かった。


ストーリーは、死を宣告された一人の少年が生と死の狭間の世界で

死んだ兄弟や家族、現実で少年の生を祈る友人達と関わりを持ち

それぞれの誤解をとき、天国へ昇っていくというもの。


特に目新しい展開はなくとも、キャラクターで魅せられたという印象。

前回までは、もっと下品な表現を全面に押し出していたようだが、

今回は大人しかった。

台詞が直球であることが、ほんの少し気恥ずかしい。


役者、窪田あつこは痩せて、セクシーになっていた。

一瞬、彼女だと分からないくらい、色気のただよう女になっていた。

騙された。そう思った。彼女はただのブスをウリにする女優ではない。

歌も、ものすごく上手いし器用な人なんだろうと思う。


ひょっとしたら・・・と思う。

小説も読んでみようかな。

劇団四季を観た。

何気に「CATS」は初見。


一部の客席ごと回転する舞台。

劇場の壁にはペットボトルや家具などの

普段、私たち人間が使っているものが張り付けられている。

どれも私たちが手にしているものの10倍くらいの大きさだ。


なるほど、「キャッツ・シアター」

私たちも猫同様だということか。面白い。


チラシから、あらすじを引用。


「満月が青白く輝く夜。個性あふれる野良猫たちが、

それぞれの生き方を精一杯歌い、踊り、競い合う、

年に一度の舞踏会。天上に上り、新しい人生を

生きることを許されるただ一匹の

『ジェリクルキャッツ』に選ばれるのは誰か・・・・」


もう、今更言うことでもないだろうが、役者さんが皆すばらしい。

歌や踊りを見ているだけで満足した。四季はやはり、すごい。


まぎれもない商業演劇。

誰もを納得させるだけのチカラを持っている。

しばらく芝居を観ることから離れていた。

こんなに長く期間が空いたのはいつ以来だろう。

もしかしたら、大学に入学してから、初めてのことかもしれない。


理由は色々と忙しかった・・・わけではなく

単に無気力になってしまったからである。

大学四年生になって、生活リズムが微妙に崩れていたのだ。

ヘタれている場合ではないと、ようやく復帰。


そんな観劇離れを打ち破った一本が

「センター街」 作:岩松了 演出:倉持裕

である。前から四列目?の下手端の席での観劇。


岩松了が作:演出した初演は観ていないので、今回が初見である。


岩松作品は一見、誰にでも見破れそうな展開や人間関係を

巧妙な台詞回しで覆い隠したり、露呈させたと思ったら煙に巻いたりして観客の意識を惹き付ける。

また、登場人物の視線や口調の端々から読み取れる情報が他の舞台より格段に多いので、

明らかにされる事柄が少ないにも関わらず、目が離せなくなってしまう。


今回は演出家が倉持裕ということで、舞台セットはかなり初演より具体化されていたようである。

二階へ上がる階段、そして、裏口へ至る天井が低かったことが印象的。

倉持裕は初演時は役者としてこの公演に参加していたのだそうだ。観てみたい。


内容は、センター街にある寂れた元喫茶店に出入りする人々の人間模様。

売春してる母親とか、自称彫刻家とか、詩人のおまわりとか、それが誰が誰を好きとか、そういう話。

ふと気付くと、劇中の人物の会話はみな一方的だということが分かる。各々の思惑に添って動いている人々の台詞の裏に隠されたサブ・テキストを読み込もうとするのだが、ちょうど感付いてきた頃に人物の出入りが激しくなる。ドアを開ける音と閉める音が耳に残る。

まるで、ちょっとした謎解きをしているよう。ゲーム感覚だ。やみつき。

人間関係の複雑さ、難解さ、重みを味わって満足出来る人には、たまりません。


女の人を描くのが上手いなと思った。

特に男受けのいい娘に対して罵詈雑言を浴びせながら、自身の脆さに崩れてしまう母親がとても

良かった。ラストシーンの展開にも納得がいく、長田奈麻の演技にほれぼれとする。


しのぶ役の北川智子が、とても可愛かった。

ぼくもとさきこ、町田マリーはもちろんのこと、役者が適材適所だったのも面白みを増した事実の一つだろう。女優陣はもちろんのこと、男優陣も加藤啓をはじめとして、キャラクターの面白さを発揮していた。

劇団、本谷有希子。

言わずもがな、ではあるが今現在、小劇場界で最も注目を集めている劇団の一つである。


自分の名前を劇団名にした主宰・本谷有希子の専属役者を設けない「プロデュ―スユニット」として 2000年8月に旗揚げされたこの劇団は、女の濃い情念や身勝手な妄想などを題材にして芝居作りを行っていると聞いていた。題材としては非常に私好みであったものの「松尾スズキに影響を受け過ぎている」という反応を多く目にしていたのであまり気が進まなかった。同時期に、別の劇団で松尾スズキに影響を受けたと思われる舞台を観て、そのあまりの出来に落胆していたので、比べるわけではなくともどこか足踏みをする気持ちが生まれていたのかもしれない。


ところが、前回公演の『腑抜けども、悲しみの愛を見せろ』と今回公演の反響コメントを目にし、私は居ても立ってもいられなくなった。色々とこだわりを持つより自分の目で確かめるべきだ。ということで、恥ずかしながら今回が初見である。『乱暴と待機』本谷有希子の「馬渕英里何にスエットを着せたい」という思いから生まれたというこの話。当日券・立見席で観劇。


端的に結論を言うと、「面白い!観に来て良かった!」である。

役者の力も大きいけれど、その役者の力を引っ張り出した台本と演出にも脱帽した。松尾スズキの影は私にはあまり見受けられなかった。特に馬渕英里何の演技力が存分に生かされていることに驚いた。長塚圭史作・演出の『真昼のビッチ』を観た時に「この人は舞台女優として成長するな」という予感があったが、今回の舞台で見事、開花したという印象。これからの活躍にも期待大。


 内容。冒頭で突如、物語のラストの男女四人の光景が繰り広げられる。もちろん、この時点では、おそらくの範囲内でしかなかったのだけれど、観客は物語の前後が分からないままに、男が「最高の復讐を思いついた」と言って家を出て行き、電車に飛び込んだというエピソ―ドを見せつけられる。「何で突然、死んじゃってんだよ!」印象的なこの台詞を残し、物語は始まる。


 献身的に相手に尽くそうとする小川奈々瀬(馬渕英里何)と寡黙で笑わない山岸(市川訓睦)は二人暮らし。日々、山岸は奈々瀬に対する「最高の復讐」の内容を考えており、奈々瀬はその「最高の復讐」を受ける機会を待ち続けている。奈々瀬は毎晩山岸を笑わせる為のネタを考え、山岸はそのネタに全く表情を変えることなくシュ―ルとベタな笑いの違いについて講義したりしている。そして二人は二段ベッドの上下にそれぞれに横になり


「おにいちゃん、明日は思いつきそう?」

「ああ、明日はきっと思いつくさ」

「良かった」


と言葉を交わし、眠りにつくのである。どうやら、そんな毎日が繰り返されているらしい。


そんな中、刑務所で死刑執行のボタンを押す仕事をしている山岸の同僚の万丈(多門優)が奈々瀬に興味を持ち、加えて万丈に思いを寄せている故に振り回されているあずさ(吉本菜穂子)が「奈々瀬に笑いを伝授する」という名目のもと、部屋を訪れるようになってから、二人の不可思議な同居の実態が浮き彫りになってくる。


なんと「復讐の原因」が何なのか、どちらも思い出せないというのだ。幼なじみだった二人は、十二年前に車の踏切事故で山岸の両親を亡くしているらしい。その際、後部座席に乗っていた山岸と奈々瀬だけが生き残ってしまい、山岸の足に後遺症が残ったとのことだが、そこからは奈々瀬への復讐の原因は汲み取れない。 山岸いわく、自分の人生がうまくいかなくなり始めた起源を辿ったら奈々瀬に行き着いたのだと言う。奈々瀬も自分のもとに会いに来て「誰も思いつかないような最高の復讐をしてやる」と言った山岸の意思を受け入れ、それで今まで六年間もの共同生活が続いているというのだ。はっきりした復讐の理由もわからないままに。そして山岸は、天井に空いた穴から、時折、奈々瀬の姿を盗み見ては復讐の内容を考えているのである。


何だかゾクリとした。恐怖とはまた違う。行き場が無いと認識した瞬間の人間の行動に覚えがあるような気がして、興味を惹かれたのだ。感情の理由づけをするために必死な登場人物たち。私は物語の展開と矛盾を楽しみながら、依存状態に入り込む瞬間の人間の姿について考えた。この二人はそれぞれ憎しみと同情の思いに互いが一緒に居ることの意味を持たせているのである。性交渉もなされない二人の関係は、壁一枚、いや布団一枚を隔てた自身の生きている実感を保つための鎖であるというわけだ。  その鎖が、万丈とあずさが介入してくることによって除々に錆びれてゆく。どこか軽快な会話のテンポに笑いながらも、私はちくちくと胸を刺してくる痛みに気付いた。その痛みは、女である自分と奈々瀬を重ねている状況に対するものだった。馬渕英里何は、奈々瀬の「人から嫌われることが何よりも苦痛で、過剰に遠慮して逆に不快感を与えてしまう」このようなキャラクターを堂々とやってのけていた。  


奈々瀬はそれから、誰からも嫌われたくないあまりに相手の欲求の思うがままになり、自分の部屋で万丈と体の関係を持ったり、あずさに見つかって殺されそうになったりする。屋根裏に居た山岸がその行動を止めたことから、覗き見の事実が露呈して、山岸は奈々瀬と別々に暮らすことを提案する。奈々瀬はそれを受け入れる。二人は二段ベッドで、いつもとは違う会話を交わす。嘘を話すという前提で、お互いの思いを伝え合う。  


ところが、いざ奈々瀬が出て行こうとする時に山岸は「復讐の原因」の内容を思い出したと言って部屋に戻ってくる。その理由とは、車が線路内に入ってしまった時に、山岸が「前」と言ったのに奈々瀬が「後ろ」と言って両親を混乱させたからだという。原因を思い出すことが出来た喜びで、六年ぶりに高らかに笑う山岸。しかし、その場で内容を聞いていたあずさが冷静に状況を分析する。


 ―― 前に進んでいたら山岸も奈々瀬も死んでいたのではないか。後ろに戻ったから、二人は助かったのではないのか。


山岸の笑いが止まる。奈々瀬が焦りを見せる。そんなんじゃない。私が悪いの。私が余計なことを言ったからいけないの。必死で山岸をかばう奈々瀬。呆然とする山岸。すると奈々瀬がここで初めて口調を荒くしながら自分の思いをぶちまける。そうやって、私のことを無かったことにするんでしょうと。そして実は、覗き見の穴は奈々瀬が用意したものだったということが露呈される。奈々瀬は山岸に自分を「復讐」という言葉のもとで、目に入れて欲しいがためにそのような行動をとっていたのだった。


 「面倒臭い私ごと、受け入れて欲しかった」


この台詞が女である私の胸を突き刺した。う―ん。痛い。どうやらこのシ―ンで奈々瀬が語ったことに対しては賛否両論あるようだが、私は強烈に見入ってしまった。不器用に振舞うことしか出来ない奈々瀬が人間臭くてたまらなかったからだろう。卑屈で不謹慎でどうしようもないけれど、愛しい。・・・と感情移入していると、山岸が「最高の復讐を思いついた」と言って外に飛び出していった。あぁ、冒頭で見せ付けられたラストシ―ンだ。そういうことか。奈々瀬は山岸が電車に飛び込んだと聞いて笑う。最低で、最強の愛情表現である。なんて、後味の悪い締めくくり。暗転になった舞台を見つめながら、私は胸の中にずっしりと重いものがかぶさってくる感覚を味わっていた。これで終わりだ。カ―テンコ―ル・・・と思ったら、舞台は明転し、部屋にひょこひょことミイラ状態になった山岸が帰ってくるではないか!  


指を無くしたものの、助かった山岸は、「本当は絵を描きたかったことを思い出した」と言い放つ。そして再び、奈々瀬との「復讐」という名のもとの共同生活が始まる――。  


本当のカ―テンコ―ルの時、私は、しばらくぼんやりとしてしまった。最後に山岸と奈々瀬が、とても幸せそうに笑ったのが印象的だった。これは立派な「愛のカタチ」であるとそう思った。恐るべし。劇団、本谷有希子。心の襞をこのような形で描き出すとは。万丈とあずさの展開に強引な箇所は見受けられるものの、それでも充分な満足感を得ることが出来た。女の情念や思い込みを描き出すというから、もっとヒステリックなものを想像していたけれど、全然違う。これは、しっかりと作り込まれた、上質な愛についての物語である。


 『腑抜けども、悲しみの愛を見せろ』がDVD化されるらしい。是非、購入して、今回公演との違いを見比べてみたい。

4月21日(木)ソワレ観劇。

公演を打つ度に賛否両論のポツドール。噂は耳にしながらも、今回が初見。


毎回、舞台装置が素晴らしいとのことで期待していたのだけれど、なるほどリアルで丁寧な作り。

友人によると、前回公演「ANIMAL」の方が河原という設定も手伝ってインパクトがあったとのこと。

観たかったなぁ。


さて、今回は乱交パーティーに集う人々が朝を迎えるまでの時間の経過を追う。ただそれだけの内容。


役者は日常会話を交わすように小声でやりとりをする。後方から観ていた私には所々聞こえない箇所があり。「台詞を届かせないなんて、観客に対して失礼だ」という意見も分かるが、逆にそれが一層、覗き見をしている感覚を助長していたりして。少なからず私にはそう感じられた。


ただ、セックスがしたくてたまらない人々が集っているので、目的は一つだけ。けれど、最初は互いに緊張して声をかけられずにいたり、勇気を出して誘いをかけてOKをもらってほっとしたり。一度うまくいったら安心して馴れ合いの関係になってしまったり。さらに露骨にアイツとヤりたいだの、ヤりたくないだのと言う奴が出てきたり。最後は「楽しかった。終わっちゃうのが寂しい」という女の子が出てきたり。それぞれがスケベで臆病で自分勝手で、そんな人間らしさに「愛」を感じて、すごく面白い。いや、していることはセックスで、ただヤってるだけと言われればヤってるだけなのですが。私はタイトルに普通に納得したのだけれど、どうなんでしょう。


HPで『騎士クラブ』の映像をちょっぴりのぞいたりもしていたのだけれど、それから受ける印象よりは、マイルドだった。暴力的な表現はあまり見受けられなかったし。おそらく三浦さんが見ている所は同じだと思うのだけど、今回の表現が優しかったのかな?


キャラクター設定もしっかりとなされているのに、「芝居」を観ている感じがしない。

かと言って「ドキュメンタリー」を観ている時のような、枠に留まらない状況をさらされている感じもしない。

構成は作り込まれ、ある一つの見せ方の形として、私たちの前に提示されている手法。

これが『セミドキュメント』か。


とにかく、すごーく面白かった。次も必ず観に行こう。